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柔道
高野中学校一年 間嶋 豪
今年の四月に、十二年間住み慣れた千葉県から京都府に移り住んでき、高野中学校に入学した。僕は千葉県で小学二年生から柔道をやっていたので、高野中学ではもちろん柔道部に入部した。それと同時に東方館という道場に入門した。だが、千葉県の道場では練習は厳しくなく、本当の意味での柔道のけい古の厳しさを知らなかった。また、小学校六年生の一年間は柔道の練習どころか体もあまり動かしていないという有り様だった。僕は現実の厳しさをまだわかっていなかったのだ。
始まってみると、「きつい」という言葉だけでは言い表せないほどだった。毎日の部活の練習、その後の道場での夜おそくまでの練習、土日も休みなしの練習・・・。しかも、練習の内容は基礎体力も何もない僕には地獄に放り込まれたようなものだった。練習をこなすどころか、練習についていけないことが多かった。また、周りの先輩や同級生さえも強豪ぞろいで投げられているばかりだった。練習の後はあまりのきつさに食事ものどを通らなかった。それでも僕が練習を続けられたのは柔道が好きだからだ。
そんな中、道場できつい練習の最後の最後に腕立て伏せ二百回をすることになった。よくやっても五十回程しかやったことのない僕にとって想像のできないことだった。みんなで声を合わせながら「一、二、三、四・・。」と道場内に張りめぐらせながらやった。七十回ほどになって腕がふるえ出し、みんなについていけなくなった。先輩に「がんばれ豪。」と応援してもらいながら、何とかふんばっておくれながらもみんなについていった。百五十回を越えたぐらいになると、半泣きになりながらやっていた。歯をくいしばって腕を曲げて上げようとしても腕の力はどんどん抜けていき、腕を伸ばしている状態が精一杯だった。そして、「百九十八,百九十九,二百。」と数え終わり、僕は魂が抜けたようだった。気づいてみれば、汗と涙で顔はぐしょぐしょになっていた。最後まできちんとできなかったことに対して、情けなさと悔しさでいっぱいだった。まさしく身も心もボロボロだった。
ところがそれよりも大変なことが僕を待ち受けていた。腕が曲がらないのだ。制服を着ることもできない。おはしを持てても口まで運べない。コップも使えずストローで飲む始末。まるで、ハンガーにつるされたかのような状態が何日も続いた。この時ばかりは本当に苦しかった。体調もくずし、練習にもいけない日々だった。このままやっていけるのか不安だった。後から聞いた話だが、こんな僕の姿を見ていた家族は、もう僕は柔道を続けられないのではないかと思っていたそうだ。まだ始まったばかりの柔道生活だったが、これが僕の一番最初の大きな試練の時だったと思う。だけど、僕はやめなかった。なぜならやっぱり柔道が好きだったから。そして、強くなりたかったから。
その後、また厳しい練習の日々が続いた。みんなと同じメニューをこなせなかった僕は何とかおいつけるようになった。相変わらずたたみの上では投げられているばかりの僕だったが、投げられる時にはなるべく投げられないようにと少しでもふんばれるようにがんばった。この頃になって、体型も以前とは比べ物にならないぐらいがっちりし、体力もついてきたと実感した。
そして、夏休みに入ってまた一段と夏の暑さに負けないぐらい熱い練習が続いた。そんな時、また腕立て伏せをすることになった。今度は百五十回だ。でも以前の僕とは気持ちも体もちがっていた。百五十回はきつかったがしっかりとこなすことができた。きっと二百回も今ならやれると思う。僕はうれしかった。さらに、僕にとってうれしかったことは翌日になっても筋肉痛にならなかったことだ。あのつらかった時を乗り越え、これまで練習を続けてきたことが確実に力となっていることが僕の体で証明された。「継続は力なり」だ。これからももっともっと大きな壁にぶち当たるだろうが、毎日コツコツと積み重ねてきた力で乗り切っていきたい。たかが腕立て伏せとちっぽけに思うかもしれないが、僕にとって大きな感動だった。この時の気持ちが僕にとって大きな自信を与えてくれた。何があっても僕の支えになってくれるはずだ。これからもますます更に強くなれるような練習ができるように精進していきたい。
豪はのちに中学3年生で全国大会出場、近畿大会3位になり、現在は私の母校である洛南高校で文武両道を目指し、また肩の怪我とも戦いながら頑張っています。 PR |
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